[195] 「文系学生も数学を」経団連、大学に改革提言へ(日経新聞)

文系の大学生も数学を学ぶべきだ――。経団連は若い人材の育成に向け、文系と理系で別れた大学教育を見直すべきだとする提言をまとめる。」H30.12.1土 日経1


シャレでしょ?

経団連が一体なにを言っているのか、それともわかった上で言っているのか、わたしはすこし理解に苦しみました。

デジタル分野の人材確保に向け、大学に改革を迫る。」同記事

わたしは文系出身ですが、得意科目は数学です。特に関数や微分・積分は大好物です。

「そんなもん!なんの役に立つねん!」

私は中学、高校、大学と関西圏で育ちましたので、このように関西弁で謗る(そしる)文系クラスの友人がいたことも確かですが、いままで30年間の社会人生活の中で数学の力に助けられたことが、思いのほかありました。

特に「AならばBである。」「BならばAである。」「AでなければBでない。」のような「論理」は40歳を越えて人事部に配属され、法律の勉強を一からはじめたときに大変お世話になりました。

また30歳代の頃はマーケ部門で顧客の動向を読み、商品ごとの売り上げが全体の売上額に影響する強度を算出する仕事をしたときには、関数の知識はそのまま活用できましたし、思いのほか幾何の知見が大変役にたった経験があります。

ビジネスの現場ではシェアビジネスやデジタルマーケティングが広がり、統計などの知識が必要と考える経営者は多い。」同記事

この点はわたしもほぼ同感です。

だからといって!「文系と理系で分かれた大学教育を見直すべきだ」(同記事)というのは拙速だと私は思います。


今年の夏に映画として公開された「ペンギン✸ハイウェイ」というアニメがあります。

主人公は利口なうえに、努力も怠らない小学四年生のアオヤマ君なのですが、徹底的な理系人材として描かれています。事実を収集し、解析して傾向を把握して、過去の事例と対比させて未知の部分を探り出し、結論付ける!すこし生意気なアオヤマ君に最初は拒絶を感じていても、探求心に素直な姿に引き込まれていきます。

しかし!

「いくら解析しても分析しても観察を続けても、どうしても!わからないことが世の中にあるのだ!どうするアオヤマ!」

これがこの物語のテーマなのです。

この物語はもともと森見登美彦さんの小説が原作となっています。

森見さんは京都大学農学部出身の(バリバリ?かどうかは知りませんが)理系人材の小説家です。

その理系人材が紡ぎだすこの小説「ペンギン✸ハイウェイ」の登場人物の中にアオヤマ君のお友達の「ウチダ君」というクラスメイトがいます。

アオヤマ君や、頭のいい女子のお友達のハマモトさんが、事実を収集し解析を続け理系的アプローチで「謎」に迫ろうとしているのに対して、ウチダ君は「死んだらどうなるのだろう?」という文系的なアプローチで「謎」に迫ろうとします。

結局「謎」は登場人物の誰にも解けずに、その続きは映画の鑑賞者や小説の読者にゆだねられることになるのですが、物語の「謎」に最も近づいていたのは、利口なアオヤマ君でも賢いハマモトさんでもなく、理系がどうしても立ち入れない(立ち入らない)領域を知っていて、そこを文系的に実直につきつめる「ウチダ君」だったのだと、わたしは思います。キッパリ!

好きな子のことについて、名前や生年月日や住んでいるところや家族構成や好きな食べ物などをいくら分析して解析しても「なぜその子が好きなのか?」の答えにたどり着くことはできない!ましてその子とつきあうことなどまったく不可能なことぐらい、だれでも知っていることだと思います。

たどりつく有力な方法はウチダ君的な文系アプローチしかないのです!

数学(算数)の勉強は、大学に入る前に小学校で6年間、中学校で3年間、高校で3年間、合計12年間もやってきて、数学を苦手とする人だとしても、赤点をクリアーして高校を卒業して大学に入学しているわけです。数学の落第生は大学には一人もいないのです!

もういいじゃないですか!

経団連の企業が採用で文系・理系を意識しなくなれば、影響は大きい。」同記事

これは企業側のご都合主義と謗られてもしかたがないかもしれません。

大学というのは専門性を高めるために、自分が何を得意とするのかを知った人がさらに得意分野を磨くために進学をするのであって、磨いて!磨いて!磨いて!これでもかと磨いて!

一人ではだめなら得意をピカピカに磨きあげた人が束になって!

誰も知らない「謎」にアプローチする!そして人の世の真実を明らかにする!

そのための場が大学であるわけでして、大学や学問が企業の功利のためにあるというのは大変狭い考えであると言わざるをえません。

少なくともわたしは大学のことをそのように特別で大切な場所だと思います。

大学は企業の職業訓練校ではありません!

大学も文系の入試に数学を追加するなどの対応を迫られる可能性がある。」同記事

本当に「可能性がある。」のでしょうか? 誰が「可能性がある。」と言っているのでしょうか? その「可能性」はいつだれがどのように計測したのでしょうか?

大学のご意見もお尋ねしてみたいところです。

「そんなことを考えているのは一部の研究者志望だけだよ。」

このような冷ややかな意見があるのは承知していますが、大学以外に人類の進歩にかかわる「お勉強」を組織的に行い、大量の若者を受け入れている場所は、残念ながら他にはありません。

大学で「特別な」「お勉強」に触れたならば、何らかの学びがあるはずであり、その知見や経験の蓄積が、ふとしたことで芽吹くことがあるかもしれません。必ずしも全員に芽吹きがあるかどうかはわかりませんが、少なくともその可能性はあるはずです。

その芽吹きとは、目先のことではなく、いつの日かイノベーションをもたらす原動力になりうる芽吹きのことです。

その芽吹きとその可能性こそが本当の意味で社会の功利に貢献することになるのだと思います。

手先の器用なフォロワーだけでは将来はすこし心もとなくあやういと思わざるを得ません。

それはもはや目先の功利とは別次元の議論です。

社労士業とはすこしかけ離れた話題のようですが、ヒューマン・リソース(人材)の話だと思えば、とても近しい話題と思えるはずです。

企業研修などもよく考える必要あるのかもしれません。

2018年12月11日